主祭神 大国魂神、大那牟遅神、少彦名神、明治天皇


宮司:吉田宮司
北海道神宮について吉田宮司にお話しを伺いました。
吉田宮司は北海道神宮の宮司に就任される前、
13年間にわかって寒川神社にいらっしゃいました。
現在、北海道神宮では吉田宮司は22代目だそうです。

拓者 島 義武という人物について
この日、吉田宮司にこの北海道神宮の歴史上大切な存在の「島義武(しま よしたけ)」という判官についてお聞きしました。
明治2年(1869)政府は7月には開拓使を設置し、8月には日本国土と明確にわかるように名前を蝦夷地から北海道と改称しました。そして旧鍋島藩士島義勇(よしたけ)は首席判官となりこの北海道を開拓するために農工民200名を連れて函館に到着しました。そのとき同時に彼が本州から蝦夷地にわたるとき、日本人の精神のよりどころとしてその御霊代(みたましろ)(神様が宿った依代。鏡や剣等々…)が運ばれました。そして明治4年にお宮ができ「札幌神社」となったということでした。
しかし、その開拓は想像を絶する過酷なものだったようです。
島判官のすばらしい功績や当時の様子については以下の参考資料を参考にしてください。
http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/miz046.htm
上記のサイトより一部紹介します。
(略)・・・・そのころは今より寒く、もう初冬に近く本州各地から募集してきた人夫たちにとっては、冷たい雪降る中の作業は大変でした。特に道路工事は大木が繁茂し見通しがきかず、途中には予想もしなかった湿地帯が広がり、雪も降りはじめ本格的な測量も不可能でした。そこで離れた地点で夜になると烽火をあげ、その火を目標に路線をきめ、樹木の伐採からはじめました。
時には灯油も凍るような仮小屋で、夜通し熊よけの焚火をたきながら、人夫や犬と一緒にざこ寝の夜もありました。判官は銭函について1か月たって、ようやく11月10日(新暦12月12日)雪のなかを札幌に入りました。
そして、営繕係を督促し本州で切り込んできた材料により、組立式の役所、住宅、倉庫などの建築を急ぎ冬を越す準備をすすめたのでした。ようやく、北1条西1丁目に官宅ができ、集議局の看板を掲げて移転したのは、12月3日(新暦明治3年1月5日)でした。
道路工事は春になり始まりましたが、両方から伐採してすすめた 路線が食い違ったり、雪解けになって予想以上の大湿地であることがわかり、ついに大幅にコ−スを変更をしなければならなくなりま した。
こうして北海道で初めての計画道路は、度かさなる悪条件のもとで大変な難工事でした。しかし島判官の苦悩は、これだけでなく開拓使と兵部省との軋轢で食糧と馬糧の補給がままならず、莫大な予 算を費やしてしまう結果となりました。事情を知らない政府は、その責任を問われるかたちで、島判官に上京を命じ、そして大学少監という閑職に退けられました。
島義勇は、その後明治7年江藤新平らと佐賀の乱をおこし刑死しましたが、北海道の開発にとって大切な人でした。 」
北海道は食料自給率200%日本全体40%となっています。
今では、すばらしく豊かな土地となった北海道も開拓者たちの大変な苦労によって生まれたのですね。宮司のお話から、どんなに大変でも「神様」という日本人の精神を心のよりどころにして生きた昔の人の「日本人としての規律」を学ばせていただきました。ありがとうございました。